それはとても晴れた日で。。。

未来なんていらないと想ってた、うつと戦う18歳のブログ。

不安よ立ち去ってくれよ。


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不安が家賃も払わずに同棲している」

不安よ消え去ってくれよ」

 

本日の曲はスリマのマイニッチ。

 

 

やる事が山積みで怠惰な時間ばかり過ごしてる。今日も卒論を書き始めるのに1時間もかかった。実作業は30分くらいで、エンジンかけるまでの1時間は「やりたくねえ」って頭の中で反芻しながらスマホ弄ったりゴロゴロしたり。いっそのことギター弾いたりゲームでもした方が有意義なんじゃないかと思う反面、遊んでしまったらもうその日は何もせず終わるだろうなあと思うので仕方なくやる。自分は本当に交友関係が狭いから、世間一般の大学生ってものをよく知らないんだけど、うちの大学は4年次に就活、卒論、国試のトリプルパンチが来るのでなんかもう大変。そして自分含め大多数は実習があるので何かもう色々と大変。大学生って、内定とって卒論書けばあとは自由なんじゃねえかみたいな偏見があるんだけど、自分は4年次が一番忙しい。というか生き残れるのか自分。まあ大企業に何社も受けてみたいな就活ではないので、そこら辺は全然マシだとは思うけれど、それはそうと不安で憂鬱が消えない。マジで皆どうやって過ごしてるんだろう。少なくとも自分の周りは頭抱えながら頑張ってる。自分も頑張らないと一瞬だけ思うけどやはり頑張りたくない。一度きりの人生だからこそ、頑張らないで生きていきたいと思います。何度でも言いたい、頑張りたくない。働きたくない。社会が怖い。

もう自分の落書き帳なんで内容が飛び飛びになってしまうんだけど、先日ゼミで飲み会をしてきました。まあお酒を飲む時間というのは楽しいもので、自分は酔うともれなく記憶の半分以上は欠けてしまう幸せな体質です。その分迷惑もかけてると思いますすんません反省はしてます。悔い改めようとしてないだけです反省はしてます。すんません。何となく覚えてるのは、2次会で超真面目で優しい人が「私は真面目でつまらない人間だ」「誰かに必要とされたい。私じゃなきゃダメだって存在になりたい」と嘆いてて、「ああわかるなあ」と頷きながらも、自分じゃなきゃダメって荷が重すぎるよなあ、自分がいつ居なくなっても大丈夫くらいの方が、こっちも気楽に過ごせるよなぁとか思ったりして。でも、やっぱり恋人とか、そういった人には「この人じゃなきゃダメ」って思われたいなあ、少なくとも自分はそう思うもの。好きな人にそう思ってもらえたら、こんなに幸せな事はないよね。もう何年もお付き合いしてないけど。

愛って何だろう、ってよく考えます。本質的な意味なのか、哲学なのか、そこら辺自分でもよく分かってなくて、でもわかんなくていいや面倒だしとか思いながら考えてます。自分は10代の頃異性とお付き合いの経験があって、お別れの時相手を深く傷つけてしまったり、自分はこの世の終わりだってくらい傷ついたり。でも相手は案外ケロッとして他の人と付き合ったり。今冷静に振り返ればなんて独りよがりだったんだって思うくらいみっともない事ではあるんだけど、今の自分はそこまで人を愛せないなと思うのです。愛って色々な種類があると思うけど、恋愛における愛って結構汚いものなんじゃねえか、独善的で独占的で、傷つけて傷ついて、でも最後に「あなたが好き」って行き場のない感情だけが残る感覚があって。もう傷つけたくねえな、傷つきたくねえなと思うと人の事なんて好きになれないよなと、思ってしまいます。皆当たり前のように恋愛してて凄いし羨ましい。何もかもが怖いもん、本当に怖い。ちなみに飲みの席で「彼氏が家事をしない、酒タバコギャンブル全部やる」という愚痴を聞いて、ある意味健全だなと思っちゃいました。自分の恋人を他者に愚痴ってディスれるって、ガス抜きができてるって事じゃんとか思ったり。自分はできなくて自爆しちゃったから、そゆのも大事だな〜でも自分の彼女がタバコギャンブルやってたらちょっとヤダなとか思っちゃいます。一緒に居て嫌じゃなきゃいいんじゃないですか恋人とかパートナーとか夫婦とか。所詮他人事なんでよく分からないですけど。。。

はあ、彼女欲しいなあ。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありふれた毎日が懐かしくなるほど。


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あなたも わたしも 変わってしまうでしょう 時には諍い 傷つけ合うでしょう」

見失うそのたびに恋をして 確かめ合いたい」

 

本日の曲は米津玄師の『カナリヤ』

 

 

ふと米津さんの『カナリヤ』を聴いた時、昔の事を思い出しました。昔って言っても3年くらい前なんですけど、2020年。このアルバムが出たのが確かコロナ真っ只中の8月とかで、これを聴きながら夜勤バイトをしていた記憶がぼんやりあります。もう、上京してから3年も経ったのか、あっという間で駆け抜けてきた感じだけど、本当に色々な事があったなあ。上手くいかない事ばかりで、ニュースもコロナばかりで陰鬱で、ああ、俺の人生って何でいつもこうなんだろうって、何となく、何となく仕方なく、どうしようもなく今を生きて、気がついたら本当に遠くまで来て。今だけは、ああ、悪くないかもなって、ほんの気まぐれで思ったりします。ガラにもなく。

昔の記事とか読み返すと、もう更新されなくなったブログの方達ともやりとりしてて、ああ、俺はこの人達の文章に救われてたんだなって思います。それこそ引きニートの時は人との接点が希薄で、だからこんな場ですら繋がりを求めて、決して多くはなかったけど仲良くさせてもらってた人達も居て。今何してんのかなとか最近凄く考えます。生きてんのかなとか、死にたくなってないかなとか。結局、自分は祈る事しかできなくて、ちょっとでも日々に面白おかしく笑える事があったらなんて、祈りって無責任だなとか思っちゃうんですけど、そう思います。

自分は色々な人に花を贈られて今生きています。その受け取った花を今度は他の人に贈ったり、花をくれた人にお返しをしたり、そうやって生きていきたいです。最近ブログを再開して感じたんですよね。ああ、俺肝心な事を何一つ言葉にしてない。辛い事も嬉しい事も、全部溜め込んだり忘れたりしてしまっている。大切な事は言葉にしないと気付けない。日々の膿を出して、たまーに人に花を贈って。そうやってもっともっと遠くへ行きたいです。いつだったか、10代の頃「遠くへ行きたい」と渇望していました。地元から、家から、部屋から出られない自分が大嫌いで仕方なくて、死ぬ事ばかり考えて。そんな俺もここまで生きて、多分明日も生きて。生きていかなきゃな、しゃあないけど、みたいな、そんな気分です。いや、若干天邪鬼です。若干じゃないかもしれないです。すみません。

8月に24になります。これまで、沢山傷つけました。沢山傷つきました。きっとこれからも、そんな人生だと思います。でも、好きな人には、大切な人くらいには優しく、誠実でありたいです。ちょっとだけ頑張ります。いや、やっぱ頑張りたくないかもしれないです。すみません。はい、すみません。明日も生きていきます。すみません。またすぐ書きます。ありがとうございます。おやすみなさい。また遊びに来てください。ではでは。

 

 

 

頭の中ペンキ溢してしまったのさ。


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こんな悲しいの中で 勝手やっても泣いても全然だ もうどうしようか」

目を開け そうだ少なくとも 自分の塗った色くらいはわかるだろうが」

 

本日の曲は米津玄師のポッピンアパシー

就活中の自分に刺さる刺さる。

 

 

5月後半〜6月は何かもうオールウェイズ病んでいて、ぐったりしたり過去の出来事に急に腹が立ったり、嫌な気分になったりで散々だったなあと思います。忙しいし梅雨だし寒暖差やばいし、更にゲッターズ飯田とか星ひとみのサイトで「5月後半〜7月くらいまで運気が良くない」と、打ち合わせでもしたかのような事が書いてあったのでまあ仕方なしかなあとか思っていたんですけど、ふと「アレ、自分ストレス発散全くできてなくね?」という、根本的な事にようやく気づきまして。愚痴を誰にも一言も言わず毎日せかせか動いてたらそりゃ病むわーと。以前女性の後輩と出かけた時に(ほぼデートじゃね?とか思ったけどお互い気がないのスゴイよね)、「俺ストレス発散が超苦手で溜め込んじゃうんだよねー」みたいな事を言ったら「私はすぐ周りに愚痴っちゃうから」と話していて、ああそれって人として健全だよなあとか思ったり。ちなみにその方は元気で明るくて人と仲良くなるのが上手で、その上優秀なのでもう眩しい!嫌味がないのが余計眩しい!自分もこんな人間になりたかった...。そうだよね、大体皆友達とか恋人とか親とかに愚痴ってるよね。自分なんかはもうキャラクターを作ってしまうというか、自身の明るくノリの良い部分を誇張して「私はノリの良い人間です」みたいな感じで振る舞っているので、どうでも良い冗談なんていくらでも言えるんだけど、愚痴とか悩みとか一切口に出せないなあ。いや、それは嘘だ。たまにバグってネガティブな事言っちゃうわ。大丈夫...?とか軽く引かれた事あるわ。ギターで曲を作った時に「どうでも良い事なんていくらでも 言えてしまうから良い事なんてない」みたいな歌詞を書いたけど、まさにそれで。自身の一部分を誇張しているので嘘をついてる気分にはならないんだけど、やっぱ自分はネガ側の人間だなあとつくづく感じます。はあ、無理せず明るく生きたいですね。

本日は午前中からボランティアサボってエアコンのフィルター掃除してました。上京してきて早3年、エアコンのフィルターには全く手を出していなかったんですけど、最近冷房かけるとくしゃみと鼻水が凄くて、ああこれは100パーエアコンだよなあと。中身開けると埃びっしりで震え上がりました。ここまで掃除機が埃でパンパンになるの初めてかもしれない。。。

午後からは講義と国試勉強があるので、これ以上病まない程度に程々にやってこようと思います...うへえ。。。

煮詰まってる。

 

さよなら以外

さよなら以外

  • CIVILIAN
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

本日の曲はしびの「さよなら以外」。

 

 

大体煮詰まったらここに帰ってきます。いや、ここ最近はずっと煮詰まってて、特に6月前半は帰宅してからソファでぐったりして病んでたんですけども、鬱病に比べればマジで大した事ないです。話は変わりましていよいよ就活の時期です。大学4年のこの時期なんで遅すぎるくらいなんですけど、就活してます。国家試験もあります。卒論もあります。実習もあります。オイオイオイ、誰か助けてください。で、一応その作業をして、6月末に控えたクソ怠い講義の課題もまとめなきゃいけないのに、今こうして惰眠を貪っています。ふへえ。惰眠を貪るって日本語良いですよね。語感かな、漢字のインパクトかな、わからんけど。

本当にやる気が出ない。やる気は出るもんじゃなくて出させるもんだ的な強者理論を振りかざす人はちょっと近寄らないでください。僕とあなたは平行線で決して交わることはないんで、とか言う勇気もないので近づかないようにしてます。つよつよメンタルになりたい。嘘、つよつよメンタルの人って何か苦手だよ、怖いよああいう人達。人の痛みとか理解できなさそう。

最近はもうすっかり真人間になって、人と会話をするなんて当たり前、大学に行き講義を受け、終わったら国試の勉強、それに並行して就活や卒論進める。たまに人を部屋に呼んでお酒飲んであーでもないこーでもないなんてくだらない、ゲームとか楽器の話をしながら翌日二日酔いで潰れてます。あの頃に比べたら、本当に真人間になったなあと思う反面、人間の平均値ってこんなもんなんじゃねえかって考えると、マジかよこんな事平気でやってる人間ってヤバ過ぎないか、それがマジョリティっておかしいだろ、俺はこんなに苦労してようやく真人間になれたというのにとか思ってしまいます。

僕は紛う事なき真人間ですので、友人もできました。5本指が余裕で余るくらいの人数ですが、逆にそんな沢山居てもだりいなあとか思ったり思わなかったり。ちなみに彼女は未だに居ません、ちくしょう。でも、根っこはやはり腐れ陰キャゴミクズ性悪人間ですので、中々人に本音を話せなかったりします。いや、これは彼らが悪いって話ではなくて、僕が自分を良く見せようとか、この場の雰囲気を良くしようとか、そういった訳の分からない見栄が先行してしまっているが故なのかなと思います、知らんけど。どうなんですかねええ。人と会話するより、一人でずーーーーーーーーーっと音楽聴いてた時間の方がこの人生の中で圧倒的に長い訳で、気さくに明るく皆を愛して生きるなんて難しいよな、いや無理だよなとか思っています。

あーもう、何もかもしたくない。でも、何もしないとそれはそれで病む。面倒くさい、面倒くさい、何もかも投げ出したい、投げ出す勇気もない。ああ、ちょっと待ってくれ、あと3分、いや5分、ゆっくりしたら電話かけるから、ちょっと待って、時間よ止まって、いや、もう終着点まで連れてってくれ、ねえ。

居なくなる前に話そうぜ。


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「どうやったって戻れないのは一緒だよ」
「じゃあこういう事を思っているのも一緒がいい」

 

本日の曲はBUMPの『話をしたいよ』。

 

 

今日、あるバンドマンの訃報が飛び込んできた。自分はその人のバンドを知ってたし、サーキットライブで彼の弾き語りを聴いた事がある人だった。人一人が亡くなって、悲しいとかショックだとか、そんな一言や二言でぱぱっと片付けて良いものだろうか、と思ってしまうのでそういった表現はしないんだけど、今日一日はぼーっとしていた。

人って、本当簡単に逝ってしまうんだなと思う。自分は死にてえ死にてえつって結局今もだらだら未練がましく生きてるんだけど、本当にあっという間なんだなって痛感する。死って何なんだろう。死にたい人間は死に愛されてない気がする。こちらの片思いみたいな。でも、世の中に貢献していたり、バイタリティがあったり、皆から愛されたり、そんな人ほど死が独り占めしようと掻っ攫ってしまう。何か、死という存在からも「お前の命なんかいらねえよ」とでも言われてるようで、でも今の自分が死に手招きされたら「まだ早えわボケ」ってキレそうな気がする。

ウチの母が、数年前に癌の申告を受けた。今服薬で治療をしており心身ともに落ち着いている(と自分は捉えている)が、あと数十年とかそういった単位で生きる事が難しい、いや、病気の知識はないんだけど、そういうのは不可能なんじゃないかなんて、そんな風に思っている自分がいる。

死は平等で残酷で、そして救いでもある。問題は残された人達。祖父母が亡くなって4年近く経つが、話したい事は依然積もりに積もる毎日である。届かない思いを抱えて生きていかなければならない。話をしたい。こんな事があった、あんな奴と出会ったって、届かなくなってからは遅い気がする。今、話をしなきゃいけないんだ。生きている今、ちゃんと伝えなきゃ。些細な事でも、くだらない事でも、話をしたい。きっとそんな事しかできないけど、そんな事が最大の存在証明なんだ。僕とあなたがここに居たっていう。朝も昼も夜も永遠ではない。でも、たわいもない話で笑い合う、そんな時間がずっとずっと続いたらいいのにな。

 

独白

先日、講義の後に誘われてクラスで飲みに行った。飲みの流れで、先生や周りから「○○君は視点や考え方が独特」と言われたので「あ〜そうっすね。」みたいな感じで返したと思う。ちゃんと覚えてはないけど。その返答に特に感情を込めたわけでもなく、相手の言葉も悪意を孕んでいる訳ではないのでフツーに受け取ったが、以前だったら「やっぱ自分は皆と違うんだ」って落ち込んだり、又は「やっぱ俺は変わり者なんだ」と喜んだりしていたと思う。人からの印象や評価に対し、ある種フラットに受け取れるようになったというのは自分の中で確かな変化だと感じる。

でも正直、自分の感性なんてまだまだ凡才と思い知る事は多々あって、その要因の一つは自分がお世話になった人達がぶっ飛んだ、所謂天才の部類の人達だからだと思う。彼らの紡ぎ出す言葉や表現、世界観が自分は大好きで、でも自分はどう足掻いても彼らにはなれない事も知っている。そして、天才の彼らは自分よりも生き辛そうに日々を過ごしていて、ああ、自分はまだ常人寄りの感性で良かったのだろうか、凡才の割には生き辛いけどとか考えたりしている。少なくとも、この世界の空気は自分にとって息苦しい。それを嘆いてどうにもならない事も、どうにもならないからこそ嘆くしかない事もわかっているつもりではある。自分の座右の銘って程ではないけれど、「押してダメなら諦めろ」という言葉を頭の片隅の方に置きながら生きていて、というのも自分は諦め切れず、積み上げてきたものに執着して、崩れそうなジェンガを両の手で何とか支えながら、崩れてない、俺は崩れてないと必死に取り繕って、結果より苦しい思いをした経験があるからである。築いてきたものを失う事は痛くて悲しい。当たり前だ。だけど、崩れた荒地から花が咲くように、時間はかかるけれどまた新しい何かが始まる事もわかった。だから、自分の心を守る為にも、「そういうもんなんだ」とできる限り割り切って生きていく事が自分にとって最善の方法なのだと、今は考えている。

この世界は、絶えず猛スピードで変化している。様々な価値観が急激に混じり合い、積み上がった古いモノは排他される。だったらもう、手放してしまった方が良いと思う。いっその事軽やかに、ステップでもしながら。変わっていくのだ、変わっていってしまうのだ、俺達は。生きていくのだ、生きていかねば。この世に生まれ落ちてしまったからには。ああ、これは執着ではない。自問自答だ。変わらざるを得ないこの地上で、変わらず、あなたへの愛を謳い続けられるのであれば、この生にも多少なりとも価値を見出せるのだろうと、今は目を閉じる。

ハロー、ハロー、応答願う。

心臓

心臓


お疲れ様です。お久しぶりです(n回目)。今日は現実逃避のために書くので内容が重ためですぜ...



今日で一人暮らしを始めて丁度2年経ったみたい。何かもうどうしようもねえなとか、どうもしたくねえなみたいなことが積もり積もっての今が成り立っているわけだけど、そんな日常は相も変わらず続いて、むしろどうしようもないことが更に積もり積もって、こんなに勝手に背負わされてもなあ重いんすけどみたいな心持ちです。こんな時、皆は何やってるんだろうか。元気にやってるだろうか。つか、生きてるんすかね。みたいなノリで相手の生活をほんのちょっとでも覗くことができたらいいんだけど、そもそもSNSでリアルの人達との交流が殆どない、というかリアルで交流のある人が殆どいない。マジで両手の指の数で事足りるくらいだと思う。皆、何とかやってる感じなんですかね。何だかわからないけどぽっかりと空いたような、漠然とした欠如感。放置されたブログやSNSを見ると、そんな気持ちを抱きます。それまでその人が生きていた証と言ったら大袈裟でしょうか。でも、更新が止まったら、その人が生きているのかどうかすらわからない。そこに、何か寂しさや空しさを覚えてしまう。6年前くらいに、わざわざ私のためにエールを書いてくれたあの人、腕を切った時に肯定してくれたあの人、ブログを書くきっかけになった人、交流のあった人達...。皆どうしているんだろうか。私は博愛主義者でも何でもなく、興味のない人間がどうなろうと関係ない、と言ったら語弊があるな。昨今の状況で私はニュースを見られなくなった。人が死んだり虐げられたりするのを見るのは辛い。まあ、いい。皆、生きているのだろうか。生活を送れているのだろうかと不安になる。私は10代の頃「僕のような変わり者は他にいるはずがない。誰もわかってくれるわけがない。」と考えていたがそれは違う。お前のような人間がオンリーワンなわけがないだろう。1匹いたら30匹どころの騒ぎではない。だが、そういった人間が現代社会において比較的少数派であるのは確かな事実であり、同類の人達がいなくなってしまうのは心苦しい。皆、生きていますか。ハロー、ハロー、生活はどうですか。こっちはダメです。ハロー、ハロー。応答を願う。ハロー、ハロー、ハロー。

なんてね、馬鹿だねえ。ではでは。